歩きながら考える
2022年9月1日
0

8月25日から27日までの3日間、東京に行ってきました。目的はいくつかあるけれど、まず初めに決まったのはビリー・アイリッシュのライブに行くことだった。ビリー・アイリッシュは1stアルバムが出た頃によく聞いていた。音楽に目を向けていたと言っていい。メロディに触れて興味が湧き、考えや人についてを調べた。しばらくしたら聞かなくなっていたけれど、初来日の情報が来て、東京1公演のみということも気になり、まぁ、当たらないだろう。という気持ちで抽選に応募した。当選の連絡までは短い期間だった。当たったな。と思い、裏に秘めていた気持ちのままにそこから人に連絡を取り始めた。

そんなことをきっかけにしないと動かないのか。そう思う人もいるかもしれない。しかし関西在住の私が東京に行くとなるとそれなりの交通費が掛かったりもする。今でも勢いとともに遠方に行くことはあるが、それは撮影あってこそだと思う。展示を見るためだけに行く。そこにかかる経費を考えると、その分であそこやどこそこに行って写真に撮りたい。という気持ちの方が正直大きい。そのため、どうしても東京に向かう理由づけの一つとしてライブのチケットを取る。そういうまどろっこしい活動をしている。ビリー・アイリッシュのライブを見たのは2日目だった。

1日目は東京に着いて、約2時間は昼過ぎから作品を見ていただくようアポイントメントをとった人の職場の近くで過ごした。コンビニのおにぎりを食べたり、ベンチに座って作品のことを考えていた。作品を見ていただいた方も困ったと思うが、3つの作品のプリントと1冊のダミーブックを持っていった。プリントは300枚近く、ダミーブックも300ページあった。忙しい中約2時間もかけてゆっくりと作品を見ていただき、様々なことを話した。この機会がどう繋がり、どう自分の作品に影響するかはわからない。ただいつからか、制作をしながらも地に足がつく感覚がある。着実に現実への行動を起こすこと。確かな考えと、作品のこれからを決定しすぎない余白を保つこと。不明確なものに対して思考に陥りすぎないようにしたまま、まずは興味に対して身を浸すこと。そんなことを繰り返すことが、着実に現実を呼び込み地続きとなっていったように思う。「できている」「後はどのタイミングでどのような形で提示をしていくか」そんなことを確かめる時間だった。まだ感謝の便りを送っていない。それでもこういった時間を設けていただいたことには感謝しかない。これからしばらくはすでにある作品の完成度を高めていこうと思っている。淵がぼやけて膨らんでいる部分を凝縮し締めていくような作業。

その後、神谷町のPGIに向かい清水裕貴「微睡み硝子」を観た。ガラスや窓を通して水を見る。カビや海水、砂を撮影したフィルムに塗布して劣化をさせる。それはその場所に佇んでいた実際のガラス瓶などの中に入り見えた世界のように写る。作品自体は清水さんの作品として成立し面白かったが、私自身はこのあえて付け加えられたカビなどの汚れが気になった。瓶の中を現す一部として納得はするが、今ではネガやプリントを劣化させることに正直驚がなくなっていると感じる。それはコントロールすることはできないけれど、「大体こんな風になりそう」という予想を超えるほどの変化には感じなかったのだ。新鮮であったはずのアクシデントが作為になる。

この日は緊張やこの日までの作品準備も伴って、安堵と疲れでずいぶんと早く寝たと思う。旅をするほど規則正しくなることをいつも不思議に思う。