話しやすい距離について
2022年8月7日
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日常でたまにあることやけど、肌に触れる(スキンシップ)コミュニケーションが苦手だなと思う。

その理由が何かというと、明確に浮かぶものはなく難しい。すれ違うときに偶然当たったとかは全然大丈夫やけど、「なんかツン」とする、「なんかトン」とする、こう言うこといったら「チョン」とする。のような、カジュアルでありノリのような場面でのスキンシップ。

大切な人であるとか、信頼関係をもとにしての愛情や心配、感動があった場合、ハグや握手など文化としての挨拶(しかし緊張を伴います)も意識することなく大丈夫。

しかし、カジュアルであったりノリを元にしてのスキンシップにはストレスを感じる。ふと思い出すのは現場作業中にある人から「おう、やってるか〜」の一言を添えてお尻をトンと触られたこと。またある人からすれ違いざまや話しかける度に肩をペチペチと軽く叩くノリがあったこと(この場合は毎日のことだったので「苦手なのでやめてほしい…」と意を決して伝えました。そして話しやすい関係になりました)。そして、合宿のような場で数日一緒になったある人から肩や腰、腕などをツンとされるノリがあったこと。

うん。どうでしょう。よくあるコミュニケーションだなと感じた人も多いと思います。

それらはその人たちなりの当たり前のコミュニケーションなんだと知っています。他者に対しても同様の行為をしていることはよく見るし、他者は楽しく微笑んでいるし、そこに何か特別な意味がこもっていないことも分かっています。合いの手程度のコミュニケーションなのかもしれない。こんな形でわざわざ反応をすることが少数であることも分かっているけれど、だからこそ、彼らにとって「ささやかにタッチする」ことは含みを持たず、あくまで友好的で他者への快い態度として根付いているのだと思います。

それでも自分にとってはストレスを感じるし、痛みを伴う瞬間がそこにあります。「肌に触れる」ということは、人同士の距離としてとても近いものだと感じます。その接触は、よほど近い関係であってのみであればと思っています。

言葉があれば十分にコミュニケートできると思えてならない。その触れる行為を受け入れる人は多いけれど、それをする人は限られていると思います。触れずともコミュニケーションはできている。今、その触れる行為を思い出しても、添えて発せられた言葉に対して、触れる行為がなくても伝わるものばかりだったと思います。

あまりその行為を重ねられてしまうと、近くを歩く時や同じ場所にいる時など、触れられる可能性を感じて近くに行きづらくなるし、近くに来られるとストレスを感じるというのが正直なところです。

肌に触れるほどの関係とはどこからなのだろう。相手を理解し、相手との距離を短くすることに自分は時間がかかります。人によっては真っ先に距離を詰めて関わりを持ち、短い期間でその間を詰めようとする人がいます。それはその人の他者との関わり方として正しく続けていたことだと思いますが、それはあくまでも自己としての心地いい距離である可能性がある。他者には違いがあるということ。その可能性をたまに思い浮かべてもらえたらと思います。僕のような人もたまにいるので。

本当の距離で話をしたいとふと思います。繰り返すようやけど、触れるという行為が個別のスケールを持ったコミュニケーションであること。そんなことをわざわざ考える人がいつことを知ってもらえたらと思っています。

少し不安定な気持ちもあったため、ここに書きました。それぞれの価値観をすり合わせて生きていきたい。相手の話す時間を待ちたい。そしてお互いで話したい。本当の距離でコミュニケーションができればお互いが安心して話すことができる。そう思います。