光源

太陽や月などに由来する光を自然光という。人工的な光源を含まないこと。「光源」は光の中でも太陽である。私は「宇宙」に興味をそそられたことがほとんど無い。太陽や月はその日の気温や見上げて光るその美しさに気持ちが動くものとして、それは実体験として興味をそそられることがある。なぜ、太陽ができたか、月ができたか。そう言うことではなく、実体験として体感できることが、私にとっての宇宙への興味である。だが、写真に写る光としての太陽は特別な対象として見続けることができる。宇宙や太陽や月への興味はそれぞれにある。光源は写真を通して、日々起こっている自然光との関わりに少しだけ焦点を合わせている。

流れ

岸、川、岸。それぞれの場所を定点観測のようにして写真を撮っている。いつもの通り、車両の中から。定点というにはいささか構図が安定しない。しかし、狙いすぎていないこの窓の外はやっぱり現実的だと思う。川の上。橋脚を電車が走る。水の近くに人が集まるのは今も昔も一緒である。ある時大きな雨が降った。釣り堀が消えた。数日後に釣り堀が現れた。今ある景色が続くとは限らない。そんな日々である。今日も人は鮒を釣る。川には水が流れ、グラウンドには少年たちの声が響いている。

窓の動物

移動をしている乗り物から写真を撮る。窓の外に、ふっと現れる生命体。飼われている彼ら、自由な鳥たち。写真の当たり前だが、止まっていなかった窓の外が止まっているこの手元を、不思議に思いながら見ている。車窓に現れるものとの関わりは一瞬で、それを少なからずでも“関わり”と言えるのも写真があるからだと思っている。目を閉じている隙間に過ぎていったものも多くあるだろう。偶然降ってきたような、これらを並べている。窓の外にあった確かな生命を手元で眺めている。

窓の動物 - Vietnam

ベトナムを行く高速バス。約4時間の道のりで目に映ったのは、畑を耕す人々、家の前に集まる人々、そして何をするでもない犬や家畜の姿だった。飼われているのか野良犬なのか、定かではないそれぞれは自由に寝たり歩いたり、時より現れる牛たちもまた、満足に囲われもせずに草を食むか遠くを見つめるかをして生きている。見慣れた日本よりも鳥は少ないが、犬や牛、地上にいる彼らは、こちらよりももう少し自由に見える。

近づく

車窓から外を見る。最も心を動かされるのは遠くから近づいてくる植物の塊とも言える森や林である。高速道路や線路、山道を車両が行く時、周囲が森や林一色になる。私はその時、「原始の場所を通っている」と考えたりする。道ができなければ通らなかった場所。現在ではあるが、いつからかそのままにされている、手付かずの場所を通っている。という意味での原始。車両のすぐ横を通って行く木々は目にも止まらず過ぎて行く。像は揺れ、定かではない形状、一瞬の塊たち。私はそれに「きたぞ」と期待を込めてシャッターを切っている。一瞬、原始に触れているとも思うし、写真になったそれは、掴みきれない一瞬の関わりとして、現実的であると思っている。

川の中

ある時に川の中から石を拾って集めているという老人に出会った。拾った石は自宅に飾ると言う。そういった文化があるようだった。石の形に名前があり、固まった鉱物の種類によっても名前が違ってくる。川に入り、石を探す。探した石は真っ二つに切られて台座に置かれていた。石との関わり方がある。年に数度川に行くことがある。その老人に出会う前からではあるが、川の中を歩きながら水の奥にふんわりと目立っている石を見つけては写真を撮ることを続けていた。石を拾うという直接的な関わりに対して随分距離のある関わりであるが、密接すぎないこのやり取りは、近いようで遠い無意識に関わっている自然との距離を表しているようだと思う。この時だけはと川の中の石一つ一つを認識するように焦点を合わす。

近所の森

自宅を出て1分以内。“近所の森”と名付けたその場所は、森と言うには小さいが、何かが宿っているような不思議な空気を纏って、その場所を形作っている。近所の森がある一帯は住宅街で、土地があれば家が建つような場所である。どうしてここだけはぽっかりと広く残り更地にされることもなく、植物の溜まり場として存在しているのだろうか。調べれば誰かの土地のようである。何をするでもない植物の溜まり場のようになっているこの状況は人の意思によって生かされているとも言えるし、人の意思がないからこそ生かされているとも言える。私も自由な土地を持ったとすれば、こんな風に整備することなく、植物が一年を全うするような場所を作ってみたいと思う。それが人の手の中と言えるのか、植物の自由と言えるのか、そういう間の場所のように見えて前を通るたびに写真を撮っている。

雀と

滝の人

Statement

写真について気に入っていることの一つに、「収集を可能にする」ということがある。音楽や小説など、誰かが作ったものをレコードや書籍の形で物質として収集する人は多いが、写真はその場面や瞬間など実態のないものを持ち帰ることができる。私が普段持ち歩いているカメラに、オリンパスペンというフィルムカメラがある。それは、35mm36枚撮りのフィルムを詰めると倍の72枚の写真撮影が可能な便利なものだ。そのカメラで撮ったものを見返してみると“あれ”と思うほどに、自然的なものが増えている。これは自覚もしているのだが、私自身が自然というものにひどく心を奪われていることが理由にある。

小さな頃は木登りや虫取りを好んだ。椿の花の蜜もよく吸っていた。目の前に現れたものを拾って持ち帰る行為は、今もなお残る童心の名残りのように感じていて、写真をその頃もよく集めた「葉」に例えることにした。「Parallel Leaves」は偶然落ちてきた落ち葉を意志を持って並べる行為の名前である。子供はその葉をお面にするし、並べて遊ぶ。葉の扱いはそれぞれの童心に委ねるが、私も写真に撮って集めてきたものを、分けて、並べて、名前をつけて、遊んでいるのだ。これはどうにも赤面するくらい趣向的な分別が心地がいい。「これとこれは一緒」「これとこれを組み合わす」。細切れに落ちてきたものを並べてみることは、写真の醍醐味だが、より童心的なものとして、落ち葉がよかったのだ。

現実的に起こっているそのままを、写真に撮ることはできない。しかし。止めることができないこの世界に対する、写真がもつ僅かながらのストップの力を信用している。写真を撮って集めること。そこに止まったものを並べることによる豊かさがあると信じている。