映画
映画『光』
2017年7月13日
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河瀬直美さんの『光』を見た。

目で見ている。この映画を見た頃は、伊藤亜紗「目の見えない人は世界をどう見たのか」を読んだところだった。目の見えない人たちがどう頭の中で現実を映像化するか、現実化をするのか。河瀬直美さんの「光」もまた目の見えない人たちがどう映画を認識するのか、言葉をどう汲み取って頭に現実化をするのかを描いていた。

いやいや、それだけではない。主人公はもともとフォトグラファーとして活躍していた。しかし、だんだんと目が見えなくなっていき、今では目の角度で本当に少しだけの色や輪郭を識別できる程度になっている。そうなった時、自分はどうするだろうか。直接的に自分に振りかかってくる現実として、それはストンと落ちやすい。しかし分からない。それは私にとって実体験ではないから。それを望まないから。それは生きがいである。あなたの生きがい。それを取られる。そこを奪い取る。つらい運命だと思う。

これを書いていた当時はすぐ後に予定があった。ドイツから来た作家さんと一つの町を歩きながらのリサーチ&写真である。そう、写真である。その日は天気が良く、歩くには最適だった。僕は見える。道を直感で選ぶ。多少の段差や坂道も気にしない。簡単な壁も登れるかもしれない。ドイツからの人たちは知り合いの知り合いだ。まず、知り合いに出会ったのが7〜8年前。その人が知り合いを紹介してくれる。恵まれている。

なんでこんな話をしているかというと、自分が当たり前のようにいきているこの世の中、行なっている物事は、見えなくなったら困難になるということだ。気軽に、急なものにも対応ができて、楽しんで。知らない人と知り合って、何かを話したりする。

『光』の中で描かれる、視覚障害者と普通の人たちの言葉は隔たりがある。視覚は感覚の最たるもの。そこのズレは様々なものへのズレも生み出す。判断基準に視覚は大きい。そうでしょう、見るでしょう。表情を、行いを、状況を、今日、あなたは何を見たか、したか。それは視覚なしでできたか。と。

ただ、映画を見ても、本を読んでも、視覚に関わらず、五感の一つの欠如を実感とすることは出来ない。それは五感に関わらず、未経験であること全てに言えるかもしれない。やったことがないことを分かることは難しい。同じことを“やった”としても、隔たりはきっとある。

映画を見た後は周囲を見ている。周囲にいる人を見ている。個人差がある。普段、どんな人達に囲まれているかを見たりもする。

見る。がなくなること。それは、見えなくならないいと分からない。