山崎博『Heliography』のファンだった。図書館で借りて何度も見た。最も多く見た写真集のひとつが山崎博さんの『Heliography』だ。
私は理論的な人ではない。写真に興味があるが、技術的、特性的な部分にフォーカスされた作品はどうにも好きになれない。『Heliography』の太陽が作る線には、方法が見える。技術的とは方法的でもある。だが、そんな山崎さんの写真は見ていて飽きない。
写真の特性を理解し、写真の偶然性を大切にしている。私が写真の好きなところは「写真の偶然性」だ。予期せぬこと。写真家の意図に止まらない、写真であるが故の痕跡。と、書いていて今更に気づく『計画と偶然』という展示タイトルだ。
いや本当に気づいていなかった。そういうところがある自分である。写真の上に描かれた太陽の軌跡。印画紙上に溶けてゆく水平線。波は揺れ、その都度形作っていたものが長時間露光の時間の中で、新たな形へと変化する。海面の反射は光の堆積だ。ここを撮るぞ、こう撮るぞ、そう山崎さんは思って撮影をするだろう。そして、行わんとしていることが、写真であるが故の計画することが出来ない予期せぬ光跡や色や反応を見せることを知っている。
科学的なものへの探究心を私は持っていない。写真の話をするときに、特にフィルムについて話すときに、粒子について聞くことが多いと思う。そしてその粒子を話す流れで宇宙に話が飛ぶことがある。私はこう言った話になったとき、その気持ちは分かるし、言っていることも分かるし、話す人にとってのその部分の重要性にいたく感銘を受ける。しかし、それは私自身の興味ではないなと思う。
それで言うならば、石内都さんがフィルムとデジタルを語ったときに「フィルムは丸で、デジタルは四角でしょ」なんて言う、とにかく端的で説得力のある一言に心を奪われる。
それと同じように、山崎博さんの『Heliography』の空に描かれる光の線には、多くを語らず的を得るような明快さを感じるのだ。
「ほらね」
そんな風に、山崎さんが言っている気がする。