映画
ヴィム・ヴェンダース「PERFECT DAYS」
2024年1月3日
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ヴィム・ヴェンダースの映画を観た。

役所広司が演じる平山の毎日。変わらない繰り返しが気持ちよく続いている時の高揚感に気持ちが浮き立った。決められた範囲、届く範囲、欲しいもの、移動の方法。何をいいと思うかは毎日が決めていて、言葉を出すか、誰と話すか、ふとした時の声色。自らを形作るものを思い返していた。

写真を撮る毎日で、繰り返しの毎日。破られる写真、箱に詰められる写真、この気持ちよさ。繰り返しの対象は私にとっても大切で、同じ場所で同じように写真を撮ることの充実、この豊かさはなんなんだろうと胸がいっぱいになった。

清掃員という仕事を心から受け入れてくれるのが子供達ばかりであるのは、大人には他者への恐れがあるからかなとか。それは日本人特有の清掃員に対するイメージでもある。手のかかる仕事ほどに高い給料が支払われる世の中の方がいい。自分が生活の中で面倒と思っていたり、誰か知らない人が使ったトイレの掃除、誰かの生活を支えるために子供を預かったり。税金の使い道とか考える。ヴェンダースはどんな思いであのシーンを描いたのだろう。

植物を育てる灯りが24時間ついているだけで古びたボロアパートが特別な住処となってとても魅力的だった。家の前の自動販売機は個人の冷蔵庫のようでもある。コインランドリー、銭湯、飲み屋、いつものメニュー(キンミヤ水割り?)、いつもの場所やものがあるお陰で、住まいの広さを超えた広さがあった。

平山と同じように自分もコンパクトフィルムカメラを持ち歩いている。それは決められたものではなく、毎回違うものを撮るためのカメラで、同じことといえば年号が入るということだ。年号とは個人的なもので作品にとっては余計である。余計なものをわざわざ引き剥がすことができないネガに印字して、一体どうしたいのかと分からないままに撮っている。