年月が経つに連れ、いつまで撮れるのだろうかと心配な気持ちが生まれる。5年以上前に、その場所を管理していた祖父はいなくなった。伯父に受け継がれたその場所は以前よりも自由に見えた。人と関わらない時間をたっぷりと保ち、雑草は雑草としての仕事を全力で行っている。緑の強さは祖父が管理をしていた頃よりも強くなっている。緑の季節を終えると、伯父が雑草を刈り始める。2020年の夏、あまりにも育ちすぎた木に耐えかねて、自らの力だけではなく業者を呼んでその木を切り倒した。ベランダから見下ろそうと思っていても目隠しをしていた木がなくなり、現れたその場所は、木だけではなく、雑草さえも刈り込まれ、そここに土を見せていた。場所は関わる人によって変容する。緑色から土色への変貌が、その場所の今なのだなと、その夏を終えたのだ。
2021年になった。そして変わらず通い続けている。数え方に間違いがなければ11年目となる。2年前に展示をした。その時の写真は祖父がいた頃のみをまとめたものだった。そろそろ、もう一つの区切りとしてもいいかもと思っている。区切り、終わり、それを決めることは難しい。いくつかの作品を作っているが、終わりを考えたことは、どの作品に対してもないままでいる。昨年から新しい作品も作り始めたし、こうしていつまでも終わることのない写真を撮り続けることができるのだろうかと、これから先の何年か何十年か先について、分からないものについてを考えている。
緑色から土色への変貌。昨年そう思ったものの、先日伯父と話したところ、今年は夏が終わるまで庭には出ないということだ。秋までそのまま。それはこの夏の緑を期待させる言葉だった。場所が人と関わるからこそ変貌し、様子が変わっていく。この場所から、一体何度の、幾つの、発見を、疑問を、私は受けていくのだろうと、困り果てては写真を撮る。