展示
KYOTOGRAPHIE|山城千佳子 『土の唄』・Arnold Newman『マスタークラス -ポートレートの巨匠-』
2017年6月18日
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山城千佳子『土の唄』
映像には油断する。前情報を知らずにいく展示や、写真家の展示で用意される作品としての映像。前知識どころかもともとの知識が少ない分、写真よりも新鮮に感じ、素直に感動するのだろう。山城作品は映像が二つと液晶を使った展示が一つ。映像は戦争や他国との繋がりなど、時勢を孕んだものだった。

政治を近く感じているだろうか。写真をやっていると近く感じる。発信をする人も多く、簡単な反応である「いいね」を押す創作家は多く見られる。だが、家族、仕事、日常でそれを聞くことは少ないように思う。そして、声を聞いたとしても、自分の考えとは違うことが多い。世の中の動きと同様に人も声も同様なことが多い。なぜだろうと思う。

山城さんの作品は率直な事実。過去を現代に活かす様に心を動かされた。思惑の無いものを信用する。事実を受け止める。戦争体験者の言葉を自身に投影する『あなたの声は私の喉を通った』は、その体験の告白に胸がギュッとなる。崖から飛んだ母や姉。戦争体験者の事実である言葉を自身に投影(乗り移るような作業)することは、その人の影から抜け出すことが困難になりそうであるし、その余韻が晴れることはあるのだろうかと、作者の試みとその後が不安になった。ただ、体験をしたことのない事実を主観的に体験する方法として、とても率直で、説得力があった。僕自身にそれをする自信はない。

第2作目『土の人』は沖縄と韓国の同様な部分である軍事基地についてを独自の手法や構成で描いていた。戦争の扱いは難しいが、現代人が見る前提の現代作品は現代的であって良いのだなと思った。音と映像はミュージックビデオ然りで、語弊もあるが渾然一体となって楽しかった。楽しかったのです。戦争や戦いを描いたその一本でありながら。作品内で出て来たボイスパーカッションや手拍子、前述の『あなたの声は私の喉を通った』も、生身で「することができる」ことが印象に残っている。することができる=誰にも共通していることである。だからこと主体的に受け止めることが出来る。物語が離れすぎず、思い出すことが出来る。
 
 
 Arnold Newman「マスタークラス −ポートレートの巨匠−」presented by BMW

一枚の写真を作るのは、自由なのだなと思った。撮るをそのままではなくトリミング。世の中に溢れる線や造形をポートレートに取り込み、自身の一枚に盛り込み活用する。ポートレートは人でたっぷりである必要はない。人が魅力的な周囲に囲まれている様はまた魅力的だ。

自分自身が人を撮るにはなかなか至らないが、このところはそう言った、人以外の部分を楽しんでいるようなポートレートを見ることを楽しんでいると思う。あと、私がいいと思うポートレートの被写体は「有名」であることが多い。アーノルド・ニューマンしかり、ヴォルフガング・ティルマンスのポートレートしかり。なぜかと思えば、多少は知っているということである。有名ではあるゆえ、会ったことは無いものの、一方的にではあるが初めての像ではなく、知っているわけである。有名では無い人(知らない人)を撮ったポートレートに興味が湧きにくいのは、写真によってその人がどうなったのかの判断がつきづらいからかもしれない。あの人が、写真によってこうなった。という実感は、あの場所にはこんな秘密があったのだ。と知る、写真の特性と同様のものでは無いかと思う。

アーノルド・ニューマンの名前はもちろん知っていた。しかし、どんな写真を撮っていた人かは知らなかった。名前は聞いたことあります。を、減らしていく。意識的には難しいけれど、どこかへ行くことや誰かに会って教えてもらうことで、そういうことが減って行く。知識が体験になること。それを増やして行くことは自分にとってとにかく続けて行きたいこと。忘れないように。そう思った。