展示
Parallel Leaves:トークイベント前のメモ
2018年11月10日
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展示について

渡邊さんが作り出した空間「YAK」。こだわりの空間。木の壁、土壁、シルバーの什器。Parallel Leavesを作り始めたのは昨年末。半年後にYAKができた。入ってすぐにいい空間だと思った。渡邊さんからは美容室というものにこだわりすぎない多様性も感じた。何度か通って「この場で展示を行いたい」ということを伝えた。その後に写真を見てもらった。各章に別れた作品。選び、名前をつけること。YAKの壁や部分には要素がある。各章の展示にも効果的な作用があると思った。おこがましい話かもしれないが、各章はこれからの(人を集める場所としての)YAKにとっても、いい作用となると思った。「光源」は光を集めている。「窓の動物」は一瞬の出会いである。「流れ」は行き来をすること、変化をすること。「川の中」は原石を集めている。「近所の森」はその場に存在して巡ること。始まったばかりのYAKのこれからはまだまだわからないことも沢山あるけれど、この場所でこの作品を展示する意義は強く感じた。場所、人、これから。YAKというこれからが楽しみな場所で展示をしたいと思った。

Parallel Leavesについて

「選ぶ」という写真にとっての根源的な行為。自らの創作に子供時代が深く関わっているということをよく考えるこの頃。「人と自然のいつの間にかの共生」という私にとっての写真のテーマがある。私たちは生きている中で自然というものを意識しているようで意識していなかったりする。いつのまにかの共存にスポットを当てるのが自分の写真になっている。その中でも、日々撮り続けている写真の中から、ネガのコマの中から「これとこれを組み合わす」という行為。日々の採集から形作っていった作品がParallel Leavesである。

それぞれの章について

光源

太陽や月などに由来する光を自然光という。人工的な光源を含まないこと。「光源」は光の中でも太陽である。私は「宇宙」に興味をそそられたことがほとんど無い。太陽や月はその日の気温や見上げて光るその美しさに気持ちが動くものとして、それは実体験として興味をそそられることがある。なぜ、太陽ができたか、月ができたか。そう言うことではなく、実体験として体感できることが、私にとっての宇宙への興味である。だが、写真に写る光としての太陽は特別な対象として見続けることができる。宇宙や太陽や月への興味はそれぞれにある。光源は写真を通して、日々起こっている自然光との関わりに少しだけ焦点を合わせている。

[考察:遠くを見ずに、近くを見る。私たちが関わる自然の中で「最も遠距離なもの」といえば宇宙であり太陽ではないかと思う。その太陽から生まれたものを近くで見る。排水溝のたまり。雲の向こう。雲の上。近づいてみたり、遠のいてみたり。カメラを太陽に向けると眩しくて目を瞑ってしまうが、写真になりさえすれば、こうやって手元で写真の中の太陽として間近に見ることができる。何年前の光が届いているかということよりも、今見ることや肌に当たっている太陽の光そのものについて、予想や感触を起点として答えのないことを綴ったりすることがちょうどいいと思う。]

窓の動物

移動をしている乗り物から写真を撮る。窓の外に、ふっと現れる生命体。飼われている彼ら、自由な鳥たち。写真の当たり前だが、止まっていなかった窓の外が止まっているこの手元を、不思議に思いながら見ている。車窓に現れるものとの関わりは一瞬で、それを少なからずでも“関わり”と言えるのも写真があるからだと思っている。瞬きをしている間に過ぎていったものも多くあるだろう。偶然降ってきたような、これらを並べている。窓の外にあった確かな生命を手元で眺めている。

[考察:Parallel Leavesの始まりとなった作品。写真を見返している時に「気になる一枚」見つかり、これはなんだろうという疑問から作品が集まる。そしてその疑問を少しずつ掘り下げるために写真を撮りにいくことや写真(ネガ・データ)を見返すというサイクルを続けている。窓の外を見ることは私の旅の主たる目的の一つである。流れていくものに目を向けてシャッターを切る。関わったのか、関わっていないのか。本質的には関わっていないのかもしれない。だが、写真を撮ることによって手元に現れた像を見続けているこの時間は間接的な関わりと言えるかもしれない。動物は流れるし、人も流れていく。とめどない遠くの景色が少しだけ時間をかけて離れていく。一つだけ浮いた雲は存在なのか。私は、この手探りの状況で、手に収めることができないものを写真に撮り続けている。]

窓の動物 Vietnam

ベトナムを行く高速バス。約4時間の道のりで目に映ったのは、畑を耕す人々、家の前に集まる人々、そして何をするでもない犬や家畜の姿だった。飼われているのか野良犬なのか、定かではないそれぞれは自由に寝たり歩いたり、時より現れる牛たちもまた、満足に囲われもせずに草を食むか遠くを見つめるかをして生きている。見慣れた日本よりも鳥は少ないが、犬や牛、地上にいる彼らは、こちらよりももう少し自由に見える。

[考察:ベトナムの動物はゆるい。これも関わっているのか、関わっていないのかという関わりの写真。動物が飼われているのか飼われていないのかがよくわからない状況。野良犬がどこにでもいるこの場所で、何を思って飼うことを選ぶのか。野原での牛はゆるい。放し飼いのようで、どこにでも歩いていく。道に川べりに、線路のそばに。]

川の中

ある時に川の中から石を拾って集めているという老人に出会った。拾った石は自宅に飾ると言う。そういった文化があるようだった。石の形に名前があり、固まった鉱物の種類によっても名前が違ってくる。川に入り、石を探す。探した石は真っ二つに切られて台座に置かれていた。石との関わり方がある。年に数度川に行くことがある。その老人に出会う前からではあるが、川の中を歩きながら水の奥にふんわりと目立っている石を見つけては写真を撮ることを続けていた。石を拾うという直接的な関わりに対して随分距離のある関わりであるが、密接すぎないこのやり取りは、近いようで遠い無意識に関わっている自然との距離を表しているようだと思う。この時だけはと川の中の石一つ一つを認識するように焦点を合わす。

[考察:人はいつのまにか自然と関わるが、意識的に関わることもある。農作物を育てる。動物を狩る。山に登り海を泳ぐ。「川の中」は石集めの老人の存在が大きいが、私はカメラを持って、また間接的に「石」に関わりにいく。水は冷たい。歩いては水中に佇む石を見つけて、あまり選ばないようにして、写真の真ん中に見据えて撮るようにしている。]

近所の森

自宅を出て1分以内。“近所の森”と名付けたその場所は、森と言うには小さいが、何かが宿っているような不思議な空気を纏って、その場所を形作っている。近所の森がある一帯は住宅街で、土地があれば家が建つような場所である。どうしてここだけはぽっかりと広く残り更地にされることもなく、植物の溜まり場として存在しているのだろうか。調べれば誰かの土地のようである。何をするでもない植物の溜まり場のようになっているこの状況は人の意思によって生かされているとも言えるし、人の意思がないからこそ生かされているとも言える。私も自由な土地を持ったとすれば、こんな風に整備することなく、植物が一年を全うするような場所を作ってみたいと思う。それが人の手の中と言えるのか、植物の自由と言えるのか、そういう間の場所のように見えて前を通るたびに写真を撮っている。

[考察:定点観測。場所を決めて撮ることは今までほとんどなかったが、いつでも撮れる場所にあるそこを撮り始めて「気づく変化」が一つの場所にあることを知る。前述したことがこの場所が存在している「人」と「自然」のシーソー的背景。写真は人一倍見るようになり、気づかなかった変化に気づくことがある。YAKでの展示が始まって10日ほどが経った頃、この場所の木の大半が伐採された。急にこの場所がなくなる可能性が出てきた。「人の力か。」と思ったし、勝手に感じていたこの場所の主人との共通していると思った趣向が崩れたようでひどく寂しく感じる。こんなにいい場所がなくなるのか。それとも伸び過ぎたものを切っただけなのか。動向を見守っている。もう少し存在して欲しいと思っている。定点観測をする意味とはなんなのか。変化を確かめることなのか。どうか。私はこの場所の定点観測をして、巡ることの中での変化を知った。定点観測をする一番の喜びは少しの変化を知ることであり、一番の悲しみは大きな変化があることかもしれない。それは、定点観測をする対象が私にとって「心地がよく見続けたいもの」であるからだと思う。]

流れ

岸、川、岸。それぞれの場所を定点観測のようにして写真を撮っている。いつもの通り、車両の中から。定点というにはいささか構図が安定しない。しかし、狙いすぎていないこの窓の外はやっぱり現実的だと思う。川の上。橋脚を電車が走る。水の近くに人が集まるのは今も昔も一緒である。ある時大きな雨が降った。釣り堀が消えた。数日後に釣り堀が現れた。今ある景色が続くとは限らない。そんな日々である。今日も人は鮒を釣る。川には水が流れ、グラウンドには少年たちの声が響いている。

[考察:定点観測。いつも乗る電車の中から写真を撮る。釣り堀(人と魚)、川(鳥)、グラウンド(人)。「今日はこんな感じだな」と少し離れた場所から俯瞰して見ている。ここにも大きな変化があったが、それは数日の出来事で元に戻った。川は荒れ果てたままでも、グラウンドはいつもの通りだったりする。私たちの気付かない場所で、私たちの気付かないことが起こっていることを知るには、定点観測はとてもいい効果をもたらしてくれる。乗り物の中からは安定感がないが、それは、私が日々感じる「現実の止まらなさ」「手に入らなさ」に対して、とても現実的な効果であり出来事である。]

近づく

車窓から外を見る。最も心を動かされるのは遠くから近づいてくる植物の塊とも言える森や林である。高速道路や線路、山道を車両が行く時、周囲が森や林一色になる。私はその時、「原始の場所を通っている」と考えたりする。道ができなければ通らなかった場所。現在ではあるが、いつからかそのままにされている、手付かずの場所を通っている。という意味での原始。車両のすぐ横を通って行く木々は目にも止まらず過ぎて行く。像は揺れ、定かではない形状、一瞬の塊たち。私はそれに「きたぞ」と期待を込めてシャッターを切っている。一瞬、原始に触れているとも思うし、写真になったそれは、掴みきれない一瞬の関わりとして、現実的であると思っている。

[考察:何も意識をしていなかった頃から、「近づく」の写真が止めどなく増えていた。今回展示しているのは、この春の長野県松本市の森を撮ったものだ。どこの森であることよりも、どこへ行っても近づいてきたその塊に反応するばかり。移動とは道の上。道が引かれる場所の中でも高速道路や林道が「近づく」の写真を撮るには恰好の場所である。トンネルを通る私たちが、それが山の中であることに意識的になることがどれだけがあるか。この意識的な反応は、写真あってこそであると思うし、あってこそ気づいたと思う。]

子供時代について

私は自然と遊んでいた。山や川、草木、虫、魚。犬を飼うことになるのは幼少・少年時代からは随分と先のことで、生き物といえば野生のものばかり。それが、写真に与えた影響は少なからずあると思っている。果たしてそれは自分だけなのだろうか。そういうことも、成田舞さんと紐解いてみたい。作家の子供の頃が、作品に与える影響について。

移動について

移動する乗り物の中から写真を撮っている。さて、何故なのだろうか。変化に反応するのは、カメラを持つものとしてとても素直な反応だと思う。闇雲さはだんだんと無くなって、窓の外に生命力を感じるたびに写真を撮っている。それが、「近づく」や「窓の動物」「流れ」という作品である。撮る。まずは撮る。その中で反応するものが出てくる。そしてそれを積み重ねる。写真の集積があってこそ、立ち現れるものがある。窓の外との関わり。一瞬のうちの一瞬。ここでこそ気づく物事があるだろうと思う。

定点観測

この頃の写真には定点観測が多くなっている。いまそこにあるもの。それを積み重ねて捉えていく。見続けたいという性根。心地が良く見続けたいという本心。私からはじまる定点観測についてはそれが大きく現れている。同じ場所を見続けて、大きな変化が起こって欲しいとは思わない。微細な変化の積み重ねから気づくものがある。積み重ねて、積み重ねて、積み重ねて行く。私たちの日々は微動を重ね、時たま崩れたり戻ったりしている。心地よい変化を求めているが、そうはならないことも定点観測を始めてから気づいたことである。大きな変化は必ず起こるようだ。