小林透『前夜』@PORT
2018年1月1日
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これに限ってはこの展示方法がどう。とかの感想はない。弟の裸や、生き様を出すかどうかだった。写真は「知的障害者である弟のヌード」だ。そう言ってしまうと元も子もないが、まずは言わせてください。まぎれもない事実として。そして肖像権について。知的障害者の場合は保護者(この場合は親)に委ねられている。作者のお母さんが了承している。だから発表している。つまりは問題ない。

展示について。展示会場は変わった場所で、一階がフリースペース、二階が展示場と住居、三階も住居、四階が畳敷きの展示場となっていた。アパートの役割が主となるが、イベントや展示スペースとして活用されている、独特な建物だった。展示場とは言ったが、前述の通りの住居であることが主たる建物。壁に釘を打てるわけでもなく、写真は畳一枚ほどの大きなベニヤ板なんかに貼り付けられて、その板が壁に立てかけられている。写真の内容は置いておくとして、展示自体に持った感想は「凝っている」だった。

弟を被写体をしつつも、作家本人の中で壁面ごとにパートが分かれている。枠組みがある。これはこう。これはこう。そんな意志を感じる。ただ、私自身の率直な感想でいえば、それ自体がわざとらしく感じる。作者の展示を見たのは初めてであり、今回の展示がたまたまそうだった可能性がある。だがしかし、「知的障害者の弟を撮った写真である」という時点で、勝手に湧いてくるわだかまりがある。作家自身がそのわだかまりを整頓できているのかどうかも気になるが、このテーマの作品で「展示方法が凝っている」ということが違和感を増幅させていたことは間違いない。 鑑賞者はそこまで落ち着いて見れるものなのか、謎だと思った。展示会場には初めて弟を撮影したエピソードが書いてあった。偶然から始まった撮る撮られるの関係性がいまも続いている。知的障害者とのコミュニケーションとはなんなのか。写真があるからこそのコミュニケーションがあるのだろうか。

会場には作者を含めての、兄弟が写ったヌード写真があった。同じ構成で10枚程度。二人とも裸である。作者が裸ということだ。継続的に撮られてきたこのシリーズ。今まで弟さんは上半身はもちろんのこと局部やお尻の穴までを晒している。身体にジャムを纏った写真もある。当たり前の感情で言うが、その行為は秘め事であり、身体に塗りつけたいジャムは変態的だ。それを親の了承を得て作品として発表している。知的障害者である弟を撮った写真ではあるが、今回兄弟のヌードを撮ったことによって、まだまだこの写真は途上なのだとも思った。弟の写真から、兄弟の写真になった。もう一つ疑問も出てきた。兄は裸ではあるが、隠すところは隠しているということだ(今回の写真に関しては弟さんも局部は見えていない)。正直な話、意思決定権のない弟が出せるもののほとんどを出しているにも関わらず、同じくして撮影者である兄が裸で出てきたにも関わらず、隠せるものはしっかり隠している写真の数々にはわざとらしさを感じた。「なぜ隠しているんだ」という反響が欲しかったのではないかと。

撮影者は「知的障害者である弟のヌード」を作品として発表することによる反響を自覚しているだろう。自らが裸になりながら出すものを出さないことによる反響があることも自覚しているのではと思ったのである。そして、この作品は一体何を伝えたいのか。と思った。わかりやすかった構図が分かりにくくなってきている。作者自身は混乱していないのだろうか。

作家本人に会えずに、一個人として展示された写真と置かれていた数々のテキストを読んだ私の感想は「何がしたいのか分からない」である。混乱した展示だと思った。作者にとってどれだけ切実な問題であろうとも、一枚ごとの写真がつよく印象を残したとしても、被写体の意思決定がなされずに発表される写真にしては、展示内容に疑問が残ってしまうのは残念だと思う。この作品はどのようにして終着を迎えるのだろうか。