写真集
佐伯慎亮『リバーサイド』
2017年2月24日
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佐伯慎亮さんの写真集『リバーサイド』が赤々舎より刊行された。前作の『挨拶』から7年ぶり。挨拶以降に撮影された写真が一冊に収録されている。

『挨拶』は、自分にとってとても大切な写真集だった。写真を初めて間もない頃、写真に対して思っていた「魅力」のようなものが、その写真集に現れていた。

写真になったものは等価である。どこで撮ろうとも。何を撮ろうとも。そんな考えが自分にはあった。一人の写真家が撮り、一つのものに纏られ、被写体が様々であったとしても、それぞれの写真の価値に差はないのではと思う。

挨拶が刊行された頃、心斎橋の複眼ギャラリーで展示と刊行記念のトークがあった。自分にとって、初めて見に行った写真に関するトークショーだった。

その中で、佐伯さんは「等価」について話されていた。インドで撮った一枚と、日本で撮った一枚。その類似性。撮った事によって思った、場所が特別でなくても、あちらでもこちらでも撮ったものに変わりがないということ。それは、見事に当時の自分の思っていたことと一致していた。

写真は写真家それぞれのものである。それぞれの写真家がいて、それぞれの写真家の作品がある。佐伯さんの写真を見て思うのは、私自身が写真に期待していることが、とてつもなく詰まっているということだ。

私は写真を普通に撮ることに期待している。偶然であったものをそのまま撮ること。写真家の目で選ばれたその場やその状況が写真になる。写真は視野とはまた違う。視野の中で、何を見るかを写真家それぞれが選ぶ。その行為を信用しているからこそ、私は写真家個人個人の撮ったものに興味があるし、写真家自身にも興味がある。

一番の理想は偶然を写真家の目で切り取るということだ。同じことを二度言っている。それほどに大切なことだ。その筆頭が佐伯慎亮なのだ。

『リバーサイド』が刊行されて、やっとその本を見ることができた。ほとんど時系列であろうページを捲ると写真が出てくる。信用できる視野がそのまま生きている。こういう写真は思考ではなく、撮る人に染み付いているものがあるこそ撮れる写真だと思う。何かのために、誰かのために、これからのために。そんなことを感じる写真が、近頃は多くなっていると思う。そういう、個人ではない何かに左右されていないところ。そんなところも安心して見ていられる。

佐伯さんにお会いする機会があって一つだけ質問をした。この写真集の中で気になった空白のようなものに気づいて、聞いて見るとやはりそうだった。ガラリと変わるところ。ページを捲るリズムが同じでも、事実としての空白期間が現れていた。そういうところが伝わるところも、一個人としてとても信用できると思った。何より写真がいい。それもまた佐伯さんだった。

最後にまた複眼ギャラリーの展示を見に行った。あの頃は挨拶。今回はリバーサイド。15分ほどのスライドショーは面白かったけど、写真集が良かった分、展示された写真の良さは伝わってきづらかった。写真それぞれの良さが際立つ分、もっと広い場所で、一枚ずつをじっくり見たいと思った。

私の思う写真の面白さの大部分が詰まっている。『リバーサイド』が多くの人に届けばと思っている。