クリスマスイブイブとクリスマスイブはこの夏に最高の思い出を作ってくれた小口と那智勝浦の浦島に行った。往路のドライブの途中で食べた柿の葉寿司、小口で見た中川さんの50メートルツリー、ホテル浦島の昭和とバブルと温泉の究極感、南方熊楠記念館。どれもが印象に残っている。しかしながら、私自身が最も印象に残っていることに「話す」ということがある。こんな時期の集まりではあるけれど、ほとんどの人が初対面だった。全12名。幾つかの輪ができて話す。全員で一つの輪で話す。この時に目立っていたのが「知識」だった。
今から書くことは批判ではない。私自身の話すことの興味について。
「知識」のある人は凄いと思っている。知識は記憶力であり説明力である。先生であり本であり事実である。そう事実。事実に対する自分のリアクションは「ふむふむ」「なるほど」「そうなのか」である。「なんでそうなるの?」「こういった場合は?」のような反応にはどうにも繋がらない。そもそも今では見ないけど、「クイズ番組」というものに心を惹かれたことがない。興味があるとすれば登壇者のリアクションや間違いの方だったりする。そういう考えもあるのか。ということである。現実の話。この日に集まっていた人たちの知識量はかなりだった。淡々と発揮される確かな知識。もうとんでもなく「それはその通り」だった。心の中で「そうなんですね〜!」が生まれるが、言葉を発する気持ちにならず、ただただ「聞く」の二日間だった。
もちろん、そんな風に思っていたのは自分だけで、場は随分盛り上がっていた。引きのある話題ばかりだ。たまに会う仲良しも楽しそうだった。念のためもう一度。私自身の話す興味についてである。
私にとって知識は探究心が生まれづらいのだろう。聞けば事実をくれるだろう。ただ、それは事実であるけれど、その人に話しかけているにも関わらず、その人の答えではなく事実になってしまうのだ。事実の後に「私はこう思う」の部分があればまた別だったのだろう。会話が弾むのはあなたと私があってこそ。その人の考えが欲しいのだなと思う。事実であっても、その人自身がそれをやってみた経験とかである。誰かがこう言っていた、こうしていたには気を惹かれないのである。途中、東南アジアで習った竹製の家を日本で作る計画をしている人がいて心惹かれて会話になったことも覚えているが、その日の自分の話さなさに「今日全然話さないね!」と友人にチクリとされたのには申し訳なかったと思う。
「なんでこんなに黙っているんだろう」と、自分でも思ってしまうくらい黙っていて、なぜ黙っているのかをその時にも考えていたので、改めてここに書き留めています。私の「話す」の興味について。知識が探究心に繋がらない。改めて難が凄い。