京都を拠点に演劇を行う劇団「地点」の劇場「アンダースロー」で写真家 石川竜一の展示があった。
石川竜一の展示はいくつか見たことがあったが、今まで見たものから一線を画すものだった。ホワイトキューブではない会場。通常写真を展示する場所でないアンダースローと石川竜一の作品の相性はすこぶるよく、手前味噌ではあるが、今まで見た中で特別に印象深く、滞在時間は長く、ある意味石川竜一の写真を楽しめた初めての展示だった。
石川竜一の写真は強烈だ。彼にとってその被写体が特別かは分からない。私にとっては普段出会わない、言葉を交わさない人々の数々。多少なりとも似通った人はいたとすれども、基本的に分厚い石川竜一の写真集のページをめくるたびに現れる「人」の数々は、とんでも強烈でとんでもしんどいものでもある。
しんどい。ある朝に、出勤前に、「絶景のポリフォニー」と「okinawan portraits 2010-2012」を見て、どっと疲れながら仕事に向かった覚えがある。好んでページをめくり始めながら、内心に起こる「もうええわ」の正直。石川竜一の被写体への敬意にはいつも尊敬をしているし、それが本心であると伝わりながらも、私の通常と、交友関係とかけ離れた被写体の数々はやっぱりしんどく、一日を始める頃にその写真を見ることは、正直言ってやっぱりしんどいものだった。
だが、しんどくなかったのがアンダースローでの「草に沖に」だった。ただポートレートを展示をするだけでなく、同時に展示をされた草(雑草)の数々。発端は劇団地点が発刊する雑誌「地下室」の創刊号「草号」だった。(私はこの号を買いはしたが、まだ手元にはない珍しい状況にいる。読みたいが読めない。購入した日に増刷中で、ひとまず支払いだけを済ませたのだ。出会いの出費は肝心である。出版社赤々社の人がまた届けてくれるらしい。とても楽しみにしている。だから、第二号もまだ読んでいない。)。なぜ草号になったのか、石川竜一が草を撮ることに対して何を思ったか。とても知りたい気持ちでいる。私自身の話になるが、私は草を撮りたい人である。草は大自然にはない。大自然で生える草は草のようで草ではない。雑草は都市でこそ雑草で、アスファルトの隙間から伸びてこそであると思っている。今、自宅の窓から見える山に見えるあの緑は雑草ではない。気まぐれに登る山の脇道に生える草花を雑草と私は認識しない。草は近いのである。どこに。人にである。
そんな、草の写真が展示をされた「草に沖に」は人が形成する劇団の劇場の、壁に床に展示をされていた。壁面と見せかけた床を壁に立てかけ草の写真を展示する。人の写真を展示するのは人が形成したコンクリートだ。それもボコボコだ。それが、石川竜一の写真ととてもいい相性だった。
白い壁に石川竜一の写真。これは、白い紙に石川竜一の写真が印刷された写真集を見る朝にも似ていると思う。対峙の連続は人として大変なものだ。石川竜一のポートレイトからは率直な視線を投げかけられる。知らない人からの視線。受け止める鑑賞者。石川竜一の写真はとても生々しいと感じる。それぞれが大変な環境で、それぞれが大変な人々なのかなと思ってしまう数々である。石川竜一とは別にポートレートを撮っている友人がいる。スクエアフォーマットでカラー。そこまでが同じでも、撮る被写体が違う分、受け止め方は大きく変わってくるのだ。人に、背景に、飾らないそのままの生々しさ。そう言った場は、通常の日々でも出会えるものではない。起き抜けやあっけらかんや着の身着のままな姿、出会えるとすれば家族まで。私は親戚にそれを感じない。それを他人に感じると言うことは、石川竜一の被写体への入り込み方であり、被写体を選び、出会い、撮る時の、ある一定の流儀なのかと思う。そして、それを見る他者にとっては、しんどいものだなと思うの。「あぁすごい」と思うとは他に、これを「見たいか」と思うにしては酷な写真の数々なのである。
そんな石川竜一の写真を見やすく感じたのがアンダースローでの「草に沖に」だった。
人が演劇をするために作った場所で、その状況で、真っ白ではないコンクリートや菅がむき出しの壁は石川竜一の世界観とかけ離れていなかった。中和がいいのかどうなのか、今までと違う印象を与える。と言うことはとてもいい体験だった。人の写真だ、とはならず、私の目はその場所自体、壁に床にも行っていた。写真にとって、場所は大事であるようだ。床に配置された写真に浴びせられる舞台照明。それは撮影時のフラッシュさながらに写真にマッチしていた。平らではない壁や菅は石川竜一の写真の印象と似ている。その壁も見てくれと言われているように、写真の配置からも感じるのだ。
劇場はギャラリー以上に有機的な会場だった。人が演じるや踊るやするその場所で、平面な写真は遜色なく飾られ、普段の写真よりもアクティブだった。床に置くことも、手で持つことも、通常とは違う許された展示方法を、鑑賞者が疑問を持たずに受け入れ許すのは、この場所あってこそだと思った。
最後に「草を撮る気持ちってどんな気持ちでしたか?」と、聞いてみたい。普段と変わらなさそうだけど、聞いてみたい。草を撮る興味があっても、草を撮っていたとしても、それを発表する機会はなかなかないと思う。今回の展示は場所との調和と共に、草の写真を発表することができたと言うことが、とても幸運なのではと思ったのである。