写真
KYOTOGRAPHIEを少しと最近
2025年5月17日
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もう少し書く機会を増やそうと、ここに向かう機会を増やそうと思っている。web上に日記や文章を書き始めたのは20年近く前で、気づけば社会に向き合う年月も20年近いということだ。

この頃は暇でもなく忙しくもない。休みはないが忙しいとは感じていない。意識。昨年が忙しかったように覚えているので、それを経ての意識は休みがあるかどうかではなく、毎日のやることの量となっているのだろう。

いくつかの場を点々としながら生きているので、この頃は生業が何かと答えるのが難しい。肩書は写真家でいいだろう。それで生きることができているわけではないが、写真を撮っていることで生きることに打ち込めているのだろうとも思う。

数日前に2025年のKYOTOGRAPHIEが終わった。最終日当日の夜にたまたま見かけた会場は撤収作業をしていた。翌日、京都市内に転々と見られた旗が消えていた。余裕があると思っていたものの、結局は今年も駆け込むように見て回ったが、例年よりも多くの展示を見ることができた。その分、旗のない京都市内がさびしく思えた。脳裏にあったが見ることができなかった展示がいくつかある。生活者としての京都、そばで開かれる写真祭。そこへ一日かけて注力することは難しく、空いた時間や居た場所の近く、近づいた会期の終盤になんとか見て回っていたのだ。写真に関わる自分がそうな訳で、写真に関わらない人の来場はどの程度あったのだろうと薄ぼんやりと考える。私の周りには居なかった。それは事実。

写真展を見に行った訳で、写真が印象に残ったのはグラシエラ・イトゥルビデ、劉 星佑(リュウ・セイユウ)、甲斐啓二郎、岩橋優花だった。KYOTOGRAPHIEが故に現れる疑問点として「この人はなぜこの場所で展示をしているのだろう?」ということがある。突飛な場所の面白み、この期間だからこその開催、KYOTOGRAPHIEの期間が終わってもなお続いている展示には好感が持てた。上記作家の展示内容にも続けて触れたいと思っている。

幾つかの仕事場を転々としながら、新しい人に何人か会った。「こんなふうにしたいと思っている」など、変化を望むような言葉が多く思いがけず嬉しい。

写真も同時にアップするつもりがデータを持たずに外へと出てしまった。