近頃の興味が本に向いていて、読むか探すか買うかばかりしている。そこにブックオフがあれば入るし、古書店があれば入る。新刊書店は言わずもがなで、こんな本があるのだなって思ってばかりいて、こんな言葉があるのだなと思ってばかりいる。
間宮改衣『ここはすべての夜明け前』
2025年に入り始めて内容が入ってきた小説だった。個人的な話で、いつからか小説は自分へのご褒美として位置付けられている(どの本が制作へのヒントになるかは分からないものだが、人文書や写真に係るものを手に取ることが多いと思う)。今年になってすぐに「2024年はいつもより活動的でよくやった」と、自分を甘やかすような気持ちも込めてとある小説を読んだ。しかし、読む時期なのか興味がかけ離れていたのか(いやしかし、生活のそばについてを書いている小説でかけ離れていることはなさそうだ)、しかし答えは出ないがはまらなかったのであろう、通読したものの、ただ一つの言葉さえも受け止めることができずに流れていくだけという経験をした。
なぜだろう、おそろしい。2025年は小説抜きなのだろうか。そんな心配をよそに、間宮改衣(まみやかい)さんによる初の小説『ここはすべての夜明け前』は印象深く私の胸に留まっている。前述した出来事もあり、小説を読むことに躊躇したのだが、表紙にも表れているひらがなを中心とした独特の文体は、読み始めてみると戸惑いは少なく、心地よくすすんでいくものだった。
主人公である (原文中も名前は出てこず空欄となっている)は、手術を受けたことによって不老不死となり、時が進むごとに家族を失いながらも有り余る時間を過ごしながら自分史を書いている。本書が出版されたのが2024年であるが、ちょうどその頃に生きている私たちにも接するように2024年に生きる が出てくる。2123年10月に書き始める、私たちの100年後。物語中の文明はやや先を行っている。私にSF小説というものを読んだ記憶があまりなく、SFという言葉の印象によって自分は何かを閉じていたのだなと、この本を読んだことによってジャンルへの扉も開いてくれたのではないかと思っている。
自分史を書くということは、赤裸々なその人に起こった出来事の告白ということであった。ネタバレになってしまうので詳しくは書かないが、この小説は現実世界に深く接する物語として重要なことが多く書かれていたと思っている。不老不死となることも、家族との関わりも、これってどれもがその辺りにあり、今日のニュースであり、明日のニュースである。小説であれば、私は韓国小説を好んで読むことがある。自らが社会と接しているという現実がある中で、現実を別としたあまりにも創作としての世界に入ることは難しく、現実があるからこそ紡がれる韓国小説は一文ごとに、印刷された文字であること以上に言葉に僅かに重さがあ。その言葉が手のひらに落ちたとすれば、スッとその手に力を入れたくなるような、生きることを実感する言葉の重さを感じるのだ。
本作もまたそれを感じて読んでいた。ひらがなが多いことで、私は知らない他人が発する言葉の抑揚に耳をそば立てるような感覚になった。言語感覚を任されたようで、あなたならどう捉えますかと言われている気がする。一人の人に起こる出来事。言いたいことも言いたくないこともあるだろう。私は主人公のことを無感情だと感じたけれど、この無感情はどこから来たのかと、この本の端々には考え込むような出来事が散りばめられている。ひらがなであること。それは何かを失ったのかもしれないし、書き換えられたのかもしれない。喪失の出来事が起こっていたのかと今は思う。
(このblogを書き始めてから随分と時間が経った)2月17日の夜に友人とこの小説について話していたのだが、あのひらがなは不老不死となった人であっても脳の退化は実は逃れられないものであったのではないか。しかしまだ本人も気づいていない、そんな意味もあるのではと話した。私は読んだが友人は読んでいなかった。お互い会うとよく話すのだが、考えが膨らむような友人の存在はありがたい。
普段の自分の言葉や、ここに書く私の文章には「ひらがな」「カタカナ」「漢字」「英語」も含まれる。自由に言葉を使っていると思う。