今日も仕事を終えて帰ってきた。晩ご飯を済ませて少しゆっくりとする。そして行ったのはこのブログを書くこと。他にもやりたいことはあるけれど、まずはキーボードを叩きたい。という衝動に駆られている。
今日は少し変わった日だった。出来事の隙間のような日で、少し油断をしていた。現実を知り、何人かの正直な感情を見て、左目から涙が流れた。涙が流れるようになったことにも驚いている。2年と少し前からだと思う。涙を流すこと。それが魅力的なことであると教えてくれた人がいる。今でも感謝をしている。
頑なに涙を流さなかったのは、中学生の頃までよく泣く子であったからだと思う。何かがあれば泣いた。痛ければ、上手くいかなければ、誰かが泣いていれば。少しだけ怒られようものなら、大泣きをする。そんな子だった。中学1年生になり、一週間も経たない頃、何を理由にかは分からないが、思いっきり泣いたことがある。そして、担任の先生に言われた。「もっと泣かないようにならないと」。余りの泣きっぷりにその言葉が生まれたのだと思う。だが、その言葉も、そのタイミングも、妙な響きを持って自分には届いた。それから、私はあまり泣かなくなった。「泣きすぎ」という恥ずかしさと、危機感が生まれたのだと思う。
映画でも泣かず、本でも泣かず、誰かの不幸にも幸福にも、滅多なことでは泣けなくなっていた。そして、泣けないことに何年もの間、不安に思うことになる。泣くことを教えてくれた人は、涙を見せてくれる人だ。些細であっても、その人にとって特別な機微を感じた時に「す」と出る。物語や出来事。感情が揺らいで涙すること。
中学生までの私の涙はもどかしさを伝えたり、どうしようもなくさせるための涙だったのだと思う。だから先生は言った。「もっと泣かないようにならないと」。昨日流した涙は、正直に話す人たちの心の揺れに対する同調だった。どの人も一緒にやってきた人だ。不安があり、それでもやらなければいけないこと。それぞれの不安は同様に大きく、私自身もできていないことがたくさんあることを知っていて、涙は止まらなかった。
これから1年で何かが変わらないとと思った。できることをして、違う涙を流したいと思った。