Life Works

この場所は、私の母方の祖父が田舎から移り住んだ50年に渡り、花や農作物を育てるために手入れをしてきた庭である。社会人として現役であった40代の頃から始まり、鉢植えを整頓し、雑草を間引き、水が撒かれる、何処にでもある庭であった。しかし、私は5年に渡ってこの場所に通い続けている。それは現在も継続中で、未だに撮り足りた気持ちになっていない。なぜならこの場所が普通ではないからだ。

鬱蒼とした緑は加減を知らず、季節とともに育っては枯れ、一つの庭に絶え間ない変化と交差を生み続けている。それは「庭」を「世界」へ「星」へと飛躍させており、降り立つ度に何が起きているのか、何が起こるのかと期待に胸を膨らませて足を運んでいる。それは写真的な魅力に溢れており、いくら通っても飽きることが無い。写真を撮る人間としては幸せな話、ここは撮れども撮れども撮り止まない恰好の写真場なのだ。

さて、写真的魅力に魅せられて通ってはいるが、ひとつ気付いた事がある。それはこの場所の緑を育てている源についてのことだ。

歩けば足に、肩に、腹に、擦れることを免れることの出来ないこの植物は、現在の祖父の姿であり、人としての衰えが育てている。唐突にも思えるその確信は、通い詰めることの対話と観察で得たものだ。「もう一ヶ月は庭には出ていない」「収穫時期はとっくに過ぎた」。種を植えた鉢には勝手な同居者が住み着き、土の上を埋め尽くす。トマトもキュウリもゴーヤも破裂している。通り道には蜘蛛が巣を張り、足下を蔦が這う。植物の自由と祖父の手。その比率が逆転した瞬間を今では知る事が出来ないが、50年前の種子から続く生命の交差はさざ波のように近づき、芽吹く度にポロポロと零れ出していたのだ。

緑の色彩に誘われ軽やかに撮るつもりだったが、どうやら背景はヘヴィらしい。撮ることは知る事だ。生命力の象徴である緑は絶えず私の心を掴んで止まないが、この緑を見ることは同時に祖父の今を見ているのだと、その色彩と密度をもって教えてくれている。