As it is
2021年8月27日
0

祖父の庭を写真に撮り始めて12年が経った。元々何年撮るとは決めておらず、まともに写真作品を作り始めたのはこの機会が初めてな訳で、私自身の作品制作は帰着することが難しく、執着するものであることが分かった。

祖父はもうこの世にはいない。撮影を初めて5年が経った頃に亡くなった。残された家と庭は伯父のものとなり、今はただひたすらに意思なくその場に存在しているように見える。10年近くに渡った祖父母の介護を終えて、ゆっくりと呼吸をする期間に入った伯父にとって、日々は黄昏るように過ぎていく。雑草とは鬱陶しいものだ。黄昏の日々にあっても、隣近所にその雑草がかかるようになると伯父は草刈りを始める。残された遺産を使って、業者に木を伐採してもらったこともある。随分と空が見えるようになって1年後、ほとんど空は見えなくなっていた。まともに関わる人の居ない広場の植物は、相変わらずの生命力で場所を埋め尽くしている。以前にも増して、歩けないほどに。

わざわざ多額のお金を使ってでも、この雑草だらけの庭を残す。祖父のお金の使い道を、祖父が残した使い道のないもののために使う。今、この場所を撮ることは、一人の人(祖父)の成れの果てであり、一人の人(伯父)の場所に対する黄昏の関わりであると思っている。この場所の隅を伯父は知らない。私だけが隅に奥にと入っていき、緑に包まれながら写真に撮っている。

人は執着する。人に。この場所は誰なのか。この場所はいつまでそのままなのか。崩れそうで崩れない、この場所の存在を私は見つめている。