本『ジョコンダ夫人の肖像』E・L・カニグズバーグ
2018年4月15日
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本を読みました。先月末から今月の最初にかけて。一冊を三回。理解するのが遅くて、本のことは印象を残してだいたい忘れていってしまうのがいつものことで、もう少し分かりたい、そんな気持ちから読んだんだと思います。

「ジョコンダ夫人の肖像」は、モナ・リザや最後の晩餐で有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ、レオナルド・ダ・ヴィンチの徒弟である少年サライ、レオナルド・ダ・ヴィンチが使える公の夫人ベアトリチェの三人による日々や、行いや、感性や、創作に関するやりとりを描いた物語だ。

レオナルド・ダ・ヴィンチは作る人。ベアトリチェは感性があり率直な人。その感性は少年サライにそのままに届く。とりわけ14章の二人のやりとりがとても魅力的で忘れられず、こんなやりとりをできる時間が人生で何度あるだろうかと、「今大切なことを話しているぞ」と二人を見守り、自分に言い聞かせるように読んだ。理論ではない、ルールではない、個人と個人の理解と伝達。社会ではない人と人の話。「作る」や「考え」「本質」について、こういったやりとりができる人と出会うことは特別である。そういったやり取りを続ける三人の日々を読みながら懐かしく思った。

自分の話。私は子供の頃に本を読まない子どもだった。家に本がなかった。子供の頃に本を読んでもらった記憶はあるが、イソップ童話の中からその日選んだものを眠る前に読んでもらうがすぐさま寝てしまう子供で、読まれた物語を覚えていないのだ。あとは図鑑。動物や魚や恐竜、人体より手前の身体の図鑑が好きだった。物心ついた頃には外に飛び出して、山に登り、木に登り、虫をとり、沢に飛び込み、ザリガニをとり、アカハラをとり、ボールを投げ、ボールを蹴り、気づけば傷を一つ増やして帰ってくる。そんな子供だった。

本を読み始めたのは20歳になるかならないかの頃だった。遅いなと思うし、本や映画を見ても印象を残してだいたいを忘れていってしまうのは、幼少期・少年期に外に飛び出す瞬発派(現実世界にある感性を自分から取りにいっていたのだと思っておく)だったから? と思ったり。そして、中学生になってからはヘッドホンが手放せない子供だったなと思い出す。あ、そうだ。本に出会う前に雑誌と出会ったんだ。タナソウ。そうな、率直な文章。私はこう思っているという意思表示。創作に感受性が応答すること。あの頃の怒涛な感性の渦。そういうものがあって、「あ、そういえば」と、あるのが分かっているのに手にしていなかったなと、恐々と本を手に取ったんだった。

回想している。というのも、ジョコンダ夫人の肖像の人々のやりとりが、懐かしくも心地よかったのだと思う。やりとり。人とのやりとりの中に感性がある。理論的、他人と何かをするための気遣いや言い回し、ではない事実。伝達と理解。あぁやりたい。このやり取りをやりたい。今それが完全になくなったわけではない。続いておらず、時たまある。そんな日々に対する三人のやりとりは羨ましく写った。さっきも同じようなことを書いていたと思うけど、この本を読んで心底そう思ったのだ。気遣いのないところにある、信用しているからできる会話ややりとりについて。

レオナルド・ダ・ヴィンチはサライとの出会いに感謝している。サライには理解力がある。時たま起こしてしまう、やってしまう感じも憎めない。14章のベアトリチェとの、ものの本質を貫かれるサライも大好きである。人は勘違いをする。それを貫いてくれる人がいる。私自身、サライのことが大好きである。この人のような感性を持ち、理解をし、気づく人でありたいと思う。繰り返すが、そう言った理解や気づきは勘違いを起こす。「ジョコンダ夫人の肖像」の素晴らしいところは、盲目的になった部分を貫く人が出てくるところだ。そういう人に常々出会いたいと思っている。気づかなかったことを伝えてくれる、射抜く人たちに。

レオナルド・ダ・ヴィンチという人を知らない人はいないと思う。現実にいた人。現実の中にある創作。知らなかったことを知ることは日々の中での魅力的な出来事である。私が写真に感じている魅力はそれである。飛躍しすぎない、知らなかったことを知ること。創作によってそういったできごとが訪れることが増えればいいと思っている。

これってこうでしょ。と言われてハッとする。そういったことを共有することが、三人という数少ない人たちとのやりとりの中に活きていることが、ジョコンダ夫人の肖像を見て最も印象に残ったことだった。現実世界の私たちには、これを言っても伝わらないだろうという諦めが普段からあるという話だ。

サライ、その人たちは信用できるよ。その出会いをたいせつにしろよ。と、言いたいはずが、彼らのやりとりに、そのたいせつさを知らされるような読書時間だった。